*--ありんこDiary--*

ICT機器活用サークル「ありんこ」のメンバーブログです。
閲覧はどなたでも出来ます。


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/22(木)
conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/21(水)
conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/20(火)



conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
昔、30年以上も前になるか、娘が保育園に通っていた頃の話。
近所のJRアパートに住んでいたママ友と一緒に眼科病院へ通っていた時期があった。
そのまま友は娘の保育園の友人で、たまたま私と同じ眼科病院へ通っていたという事で、私は通院の前日にそのアパートへ行き、診察券を渡しておいた。
その理由は、ご主人がJRに勤めているので、出社する時に私たちの診察券を受付まで入れに、わざわざ病院まで立ち寄ってくれたからだった。それから出社していたのだ。決して勤務地がその病院に近い訳ではなかったのに。実にありがたく、助かった。
おかげで診察番号もいつも一桁の数字だったので、私とそのママ友が病院に着くころには座ったらすぐに呼んでもらえたくらいのスピードで診察が受けられた。
その後私たちは二人でゆっくりとランチしたり、ショッピングしたりして、有意義で楽しい時間を過ごさせてもらっていた。
だがそんな幸せな時間は長くはなく、そのママ友の家族は別の場所に一戸建ての家を造った為、引っ越して行った。

ああ、何とも淋しいやら、今まで助かっていた分、自分でやっていかないといけないので(それが当り前だが)、しばらくはガンバル意識で臨んだ事を覚えている。
それ以降はそのママ友とも会う機会はなくなり、元気でいるかと思い浮かべるくらいとなった。

私はあの頃を挟んで、眼科病院へ40年以上も通っているので、様々な変遷が思い浮かぶ。
変わらないのは、ずっと国鉄、JRの電車の世話になっている事だ。その間には独りで通えたのが次第にできなくなり、母と一緒に、または友人に連れて行ってもらったり、そして結婚し、子供が生まれ、再度また目の手術で入院し、夫の車での送迎となり、今に至っている。実に長かった。あとどれくらい続けないといけないのだろう。
死ぬまで通院し、薬を処方してもらい、目薬を差し、飲み薬を服用する。
全盲なのだから、もう辞めてもいいと思うのだが、なかなか自分から辞める事は難しい。
これも運命かと思っている。
Date: 2021/04/22(木) No.2180


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
今月はやたらとJR関連の話に集中させています。それも、以前のブログですでにアップしたものもあります。ただ内容は同じでも、完璧に書き直しているので、前回の記事と微妙な違いが出ているかも知れません。
でも、それはどなたさんにもわかるまい。??
何故なら、私自身もよく覚えていないのだから。

今回はJRと私鉄線が総合となっている大きな駅のコンコースでの話。
私にとってはいつもの下車駅だったが、その日に限ってコンコースでブラスバンドの演奏が行われていた。
大人ばかりの編成で、県の警察官だったか、そこの楽隊なのか、音も力強く、きちんと揃っていた。皆が制服でびしっと決まっていた。
私は見事な演奏に完全と足が止まってしまった。
コンコースの天井にまで響き渡るようなサウンドがとてもクールで、ぐっと心に浸み込んだ。私はもっと聞いていたかったが、目的があってその駅に降りたのだから、達成する為に移動しなければならなかった。そして、ゆっくりと惜しみながら歩を進め、地下鉄に通じる方へ向かうと、ブラスバンドの音が背中の方へ回り、小さくなっていった。
残念でたまらなかったが、地下へ潜って行った。
この日はコーラスの練習日だった。まだ独りで通えた頃の話である。

私は小さな頃からサウンドを楽しむ事が好きだった。
中学生時代はビートルズが絶頂期の頃で、兄も私もレコードを買っては聴いていた。
それが今となっては完璧な全盲となり、物を観たり書いたりができなくなり、音を聞くしかできなくなった。だから音は、聞いて楽しむというより、私の生活そのものを占める事となったのだ。
映像からの感動はもはや得られなくなったので、耳から得る感動を求めるしかない。
そんな私にとって、音が聞こえなくなったらもうオシャカである。
年々、耳が聞こえづらくなってきている現実に、不安というよりも恐怖を感じている。
今以上に不自由な体になったら、もっと頑張らないと「普通」に暮らせなくなるのだからね。頼むよ、耳さん!
Date: 2021/04/21(水) No.2179


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
今回は新幹線の話。この時、私の孫は小学一年生だった。これもすでにブログにアップ済みである。

昨今の日本はだんだんと治安も悪く、想定できないようなぶっそうな事件が起きるようになったので、今から書く内容はあまりお勧めできるものではないかも知れない。

娘は孫と二人で遠方の「都会」に住んでいる。時さえ許せば娘は私たちの家に里帰りして、英気を養ってからまた「都会」へ戻っていった。
それが今はコロナ問題でとんと来る事ができなくなっているが、それ以前はちょくちょく顔を見せに来てくれた。娘は自営のネールサロンの仕事のきりのよい時を見てやって来るが、孫は独りで先に来る。とは言え、たまたまこちら方面に里帰りする友達と一緒だったり、その祖父母と一緒の旅だったりした。
このパターンは彼が小さな頃から実行してきた。ところがその時は孫はたった独りで来たのだ。安全の為に、新幹線に乗せる時に車掌に頼んでおいたらしい。
我々じいじとばあばはこちらの新幹線駅のホームまで迎えに行き、そこで孫をゲットして家に連れて行く。…はずだった。
ところが、孫が新幹線から降りてこない。「えーっ?」

夫はすぐに孫の携帯に電話した。彼は電話に応えたが、内容がはっきりしない。
彼が言うには、下車する駅の手前でトイレに立ったらしい。そして席に戻ったら違う人が座っていたと言う。つまり降り損ねたのだ。
夫は事情をすぐにホームの駅員に伝え、そのスタッフはもうすでに発車した新幹線の乗員スタッフに連絡してくれた。
この新幹線は次の駅まで行ってしまうので、そこで下車してまた乗り換えて戻って来るしかないと言っていた。
うわ、えらいこっちゃ!「都会」の家で独り、息子の無事を気にしているだろう娘にも電話をしておいた。
駅のスタッフは「お孫さんに一人つけて無事に戻るまで一緒にいるように致します。」と言ってくれた。
少しほっとして、私と夫はその新幹線の到着を待った。ホームは隣へ移動しないといけなかったが、慌てる事はなく、落ち着いて行動した。
とても長く感じた待ち時間だったが、やっと孫を乗せた車両がホームに着いた。

孫はスタッフと一緒に降りてきた。不安そうな顔をするでもなく、自分が置かれている状況が理解できないと言った方が当たっていそうな顔だった。
夫と私は思わず孫を抱きよせて、スタッフに深くお礼を告げた。

帰りの車の中で孫から話をしっかり聞いたら、「ちっとも心配じゃなかった。戻って来る時、グリーン車の椅子に座らせてくれて、ずっとお兄ちゃんが一緒にいてくれたんだよ。いろいろとしゃべった。」とうれしそうに話していた。
小学一年生のボクにはそんな感じだったのだろうか。ハラハラしたのは大人だけだったのかも知れない。
それに今回の降りそこないは孫のミステイクなので、戻って来る時の費用は取られなかった。これ秘密?
JRの、そう新幹線の肝っ玉の大きさには感激した。本当に世話をかけた。
実にありがたかった。国鉄職員だった父がこの事実を知ったら驚くとともに、涙を流して喜んだに違いない。父はこのまご、つまり父のひ孫にあたる彼を抱いた事はない。生まれる前に父は亡くなっているから。
母の家にある父の大きな遺影だけが、いつも微笑んでいる。
Date: 2021/04/20(火) No.2178

現行ログ/ [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27]
キーワードスペースで区切って複数指定可能 OR  AND
返信した方が修正・削除する場合(またはタグを効かせたい場合)
No. PASS

**HOME**
047442
[TOP] [LIST]
shiromuku(pl)DIARY version 2.70
このプログラムは上記のCGIを改造したものです。