*--ありんこDiary--*

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conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/07(水)
conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/06(火)
conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/05(月)



conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
私が利用している駅のホームは国鉄時代から全く変わっていない。
あえて言えば、ホームの真ん中辺りにエレベーターとエスカレーター付きの階段ができた事かな。
駅舎はすっかり木製からモダンなコンクリート造りに代わったが、頭の中では容易に昔の駅舎からホームへとつながる階段通路が浮かんでくる。案内板に「ホームえつながる…」と書いてあったあれである。
ホームはいわゆる「島型」と言って、両サイドに上下の線路が通っていて、上りと下りの電車が両サイドから順次発着するのだ。ホームの東側が上りで、西側が下りの電車となっている。そして東側には大規模な、貨物列車のポイント切り替え用の線路がいくつも並び、壮大な景色となっている。
国鉄の時代は貨物の利用も盛んだったが、次第に物流の手段が移り変わってきた為、この壮大な貨物操作場の利用率もかつてのにぎわいは見られなくなっているかも知れない。
もっと昔はSL機関車を操作させるターンテーブル(と言うのか?)があって、汽車の先頭を転換させ、進んできた方向へまた戻って行ったと聞いている。
景色も音も、またそこで働く人々の数も大きく変わってきている。
このホームにかつては蒸気機関車が走っていたというが、実際私が乗ったり見たりしたのだろうか。記憶が定かではないのだ。
SLが発車する時のぼーっと鳴らす汽笛の音や、大きな動輪が「ガッタン、ゴットン」と動き出す瞬間をこの目で見たのか、はっきりとは覚えていない。
そういうシーンはテレビや映画でもよく見たものだから、本当の記憶があいまいなのである。
はっきりと記憶にあるのはオレンジ色とグリーンのツートンカラーの車両、「湘南電車」と言っていたものにはよく乗った。通学、通勤によく使ったのだ。
あとはディーゼルで牽引する客車で、車体はあずき色だったと思う。それにも乗った記憶がある。車内の椅子は木製で、背もたれが直角で、座りづらかった事を覚えている。
たまに家族旅行などで特急電車に乗ると、開閉可能な窓から駅弁を買うのが楽しくて、旅のいい思い出となっている。
遠方で暮らす母方の祖父母の家に家族でよく遊びに行ったものだった。
母は海水浴へも電車で連れて行ってくれた。我が家には車がなかったので、もっぱら交通手段は電車だった。私と兄が幼かった頃は母も若く、大荷物でも平気?でかついで持って行った。本当に電車はよく使ったものだ。

私が若かった頃は、つまり国鉄時代は作業員や駅員が沢山いた。
ホームにも駅員の姿は何人もいた。
今は、誰もいない。
利用客もあまり多くない駅なので、その周辺の商店のにぎわいも次第に火が消えたように静かになって行った。
駅はその市の顔とも言える。それが閑散としていると、その地域全体の活力も乏しいように思えてくる。
市内の人口増加もあまり変わらず、若い人よりも高齢者の方が断然多い。
人影をあまり見ない現実は、昔のシックな木製の駅舎からコンクリートの駅舎に変わっても、余計に淋しさを強調させているような、そんな気持ちになってくる。
昨年からのコロナ災いで人の顔から笑みが消え、人と人の集いも少なくなり、活気がほとんど消え失せている街並み。
昔を思い出すノスタルジアだけが救いなのだろうか。
Date: 2021/04/07(水) No.2165


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
私は父と手をつないで駅までの道を歩いていた。もう40年以上も前の話だ。

高校生の時、何となく父がうっとおしくて口を利かない期間があった。
でもそれではダメだと思いながらも変化なく日は過ぎて行った。
高校二年生の時、修学旅行から帰った後、ある夜、母が「お風呂場に石鹸を持って行ってあげて。」と独りでにゅうよくしている父親に渡すように言われた事があった。
その時はごく自然に「お父さん、石鹸持ってきたよ。」と言った私に「ありがとう。」と不通に返事をくれた父に気持ちがすーっとした事を覚えている。
今まで抱えていた澱(おり)のようなものが一瞬で溶けたような気がしたのだ。
それからは普通に口が利けるようになった。なんでだろう。

母と父、そして私の三人で出かける時は、ほとんどが母と私が二人並んで父の前を歩き、ああでもない、こうでもないとおしゃべりをしながら、時には後ろを歩く父をからかったりしていた。
父はそんな私たちをニコニコしながら眺めていたのだと思う。
そして私が高校を卒業し、社会人となってからのしばらくを、父と一緒に駅まで歩いた事を覚えている。

高校生の時に何故かしら父がうとましくて口を利かなかった事に対し、悪かったと思ったのだろうか、一緒に歩く時、私の方から「お父さん、手をつないで行こうか。」と言ったと記憶している。
父も照れながらも、まんざらではなかったように思う。
家から駅までを父と二人、何かをしゃべりながら、時には笑いながら歩いて行った。
今、思い出しても懐かしく、楽しかった。
いつまでそういう形を取っていたかは忘れたが、結構続いたように思う。

それから父は定年退職をして別の職場で働くようになった。
私もその後に結婚し、家を出た。
父はそれから車の免許を取得し、だんだんと目が見にくくなって行った私をサポートすべく、よく買い物や福祉施設へ車で連れて行ってくれた。
父と手をつないで駅まで歩く事はもうなくなった。
これは、もう二度と戻らない、私の大切なセピアメモリーである。
Date: 2021/04/06(火) No.2164


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
あの頃私はまだ高校生だった。中学は地元の公立中学校に通っていたが、高校は公立には成績が低かったので入れず、受験をして私立校に入った。
その中学校からその高校に入ったのは私一人だけだった。
だから通学も誰とも一緒には行けず、国鉄の駅舎を三年間、たった一人で通った。
通学も教科書を学校に置きっぱなしになどしないで、毎回重たい鞄を持ち帰っていた。
かと言って家でしっかりと復習や予習をする訳でもなかった。
私は校則はまじめに守り、遅刻もしない生徒だった。成績は相変わらずよくなかったので、テスト結果や通知表はさんざんだったが。だが、学校ではそれなりに友人もでき、登校拒否をして苦しむ事はなかった。

完全なる女子高だったので、通学途中の電車内で男子生徒と一緒の空間にいた事はあったが、一つのロマンもなかった。
ある日、通学の地下鉄に乗っていた時、反対の窓の下の座席にいた男子生徒二人が何やらヒソヒソと話しているのが聞こえた。
反対側に座っていた私を見ながらしゃべっていた。
「おう、あいつどうだ?」
「だめだめ、クソマジメに見える。」
と言う会話が漏れ聞こえてきた。

私は異性から声をかけられたりした事がなかった。それを女友達に愚痴ったら「アンタは隙が無いんだよ、きっと。いいじゃんか。」となぐさめられた記憶がある。
果たしてそうかなあ。
女子高生時代の私は、数人の友達とキャンキャンしながら過ごした事はなかった。
友達はいたがほとんどが単独行動で、淋しいと言うより、気を使わなくて済むから都合よかった。
グループで楽しそうにしている女子たちを見ていると、いいなあとは思ったが、大勢で群れながら行動するのは得意ではなかった。

ある日、国鉄が順法ストライキを実施して、かなりのダイヤが乱れた時があり、登校にも影響が出た。
そんな時は窓口で「遅延照明書」を発行してもらい、それを改札口でスタンプをおしてもらえば大丈夫だったので、多くの人たちで窓口は混雑し、遅延照明をもらっても電車にはなかなか乗れなかった。
やっとの思いでホームに立ち、遅れて入ってきた電車に詰め込まれて、目的の駅でそれぞれが降りて行った。
そして地下鉄に乗り換え、完璧なる遅刻だったが、気持ちは楽だった。だが私としては、なるべく走って学校まで行きたかった。少しでも早く到着したかったのだ。
そんな私の横を、のんびりと歩いている同じ学校の生徒を見ると、なぜか腹が立ったのを覚えている。
やはり私はクソマジメなのだ、きっと。
Date: 2021/04/05(月) No.2163

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このプログラムは上記のCGIを改造したものです。