昨日あたりから、今読んでいるデイジー図書の下巻に入った。 このデイジーはすっかり私の枕辺の友となっている。 一日を終え、床に就く時間になるとある意味ワクワクしてくる。それはデイジーを誰にも気づかいなく聞ける時間が始まるからだ。 夫は、相変わらずテレビを見続けている。だから私はさっさと布団に入り、再生機を枕に置き、音量も最小に絞って聞いている。とことん、その世界に入る事ができるので、私は大満足である。 もちろん睡魔が勝ってふっと気づいたら話がかなり進んでいる事もある。そんな時は再生機の操作で、少し戻して聞き直している。 ああ、幸せなひと時である。
冒頭から聞き進めていくうちにはたと気づいた。あ、声が変わっている。 音声訳の人が交代していた。上巻はもう亡くなってしまった友人の声で、下巻は優しい声の人になっていた。 今も元気で活動されている人だ。 これはすごい!と思った。 一つの作品を二度楽しめるからだ。 音声訳の人が生の声で読んだものをデイジーに仕上げてあるものは、パソコンやスマフォで聞くデジタル音声とは違い、味があってとてもいい。 機械的な合成音とは全く違うのだ。いくらテクノロジーの発達で、人間の声にひたすら近づけたとしても、機械は機械である。
私がデイジーを聞く時は、読み手の声色で、また読み味で、作品の登場人物を想像する。 いつだったか、私が住む市とは別の所から届けてもらっているデイジー図書の音声訳の人がとても個性的で、その人の世界観が感じられ、作品の中身とは別に、新たに楽しませてもらっていた。 その人のキャラが作品の登場人物のキャラとなり、私は話の世界に入り込んでいた。 例え登場人物が40歳の人だとしても、読み手が70歳代だったら、そのようにイメージしていた。私は常にそうしながら作品に触れている。 独特なリズムを持つ読み手もいて、それはまた面白く、全て読み手の味となっていた。 でも、実際はどうなのだろう。音声訳の人が一冊の本を読む時は必要以上な感情を込めないようにと指導されているのだと思う。坦々と読み進め、あまり味をつけてはいけないとか?その頃合いは簡単ではないと思うが、聞き手の私たちもどれだけを要求してよいのか、ちょっとわからない所がある。
話は違うが、合唱で歌を歌う時、あまり感情を入れ過ぎてはいけないと指導されている。ちゃんと歌詞が、また音符が意味あるように作られているのだから、自分勝手に解釈して歌ってはいけないと指導されている。 感情を入れ過ぎるのはあくまでも自己満足の世界らしい。 どうしても昔から馴染みのある歌は歌いたいようにしたい。それはダメなのだ。 坦々と、歌詞に沿って、音符に充実に声を載せるのだと言われている。 それは結構難しいのだ。つい、歌いすぎてしまい、自分ながらに満足しても、指導者からはダメ出しをぶつけられるのが関の山だ。 話をデイジーに戻すが、やはり私はある程度の抑揚がつき、声色でも楽しみながら聞きたい。それは贅沢な希望なのかしら。 それはさてとして、いつも提供してもらうデイジー図書、また音声訳の人たちには改めて感謝!であります。 いつも素敵なデイジーをありがとう!!
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Date: 2021/01/19(火)
No.2052
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