*--ありんこDiary--*

ICT機器活用サークル「ありんこ」のメンバーブログです。
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conkoの「枕辺の友」  2021/01/19(火)
conkoの「自分の記憶がどんどんヤバくなってる?」  2021/01/18(月)
conkoの「社会に貼りつく理不尽」  2021/01/17(日)



conkoの「枕辺の友」
昨日あたりから、今読んでいるデイジー図書の下巻に入った。
このデイジーはすっかり私の枕辺の友となっている。
一日を終え、床に就く時間になるとある意味ワクワクしてくる。それはデイジーを誰にも気づかいなく聞ける時間が始まるからだ。
夫は、相変わらずテレビを見続けている。だから私はさっさと布団に入り、再生機を枕に置き、音量も最小に絞って聞いている。とことん、その世界に入る事ができるので、私は大満足である。
もちろん睡魔が勝ってふっと気づいたら話がかなり進んでいる事もある。そんな時は再生機の操作で、少し戻して聞き直している。
ああ、幸せなひと時である。

冒頭から聞き進めていくうちにはたと気づいた。あ、声が変わっている。
音声訳の人が交代していた。上巻はもう亡くなってしまった友人の声で、下巻は優しい声の人になっていた。
今も元気で活動されている人だ。
これはすごい!と思った。
一つの作品を二度楽しめるからだ。
音声訳の人が生の声で読んだものをデイジーに仕上げてあるものは、パソコンやスマフォで聞くデジタル音声とは違い、味があってとてもいい。
機械的な合成音とは全く違うのだ。いくらテクノロジーの発達で、人間の声にひたすら近づけたとしても、機械は機械である。

私がデイジーを聞く時は、読み手の声色で、また読み味で、作品の登場人物を想像する。
いつだったか、私が住む市とは別の所から届けてもらっているデイジー図書の音声訳の人がとても個性的で、その人の世界観が感じられ、作品の中身とは別に、新たに楽しませてもらっていた。
その人のキャラが作品の登場人物のキャラとなり、私は話の世界に入り込んでいた。
例え登場人物が40歳の人だとしても、読み手が70歳代だったら、そのようにイメージしていた。私は常にそうしながら作品に触れている。
独特なリズムを持つ読み手もいて、それはまた面白く、全て読み手の味となっていた。
でも、実際はどうなのだろう。音声訳の人が一冊の本を読む時は必要以上な感情を込めないようにと指導されているのだと思う。坦々と読み進め、あまり味をつけてはいけないとか?その頃合いは簡単ではないと思うが、聞き手の私たちもどれだけを要求してよいのか、ちょっとわからない所がある。

話は違うが、合唱で歌を歌う時、あまり感情を入れ過ぎてはいけないと指導されている。ちゃんと歌詞が、また音符が意味あるように作られているのだから、自分勝手に解釈して歌ってはいけないと指導されている。
感情を入れ過ぎるのはあくまでも自己満足の世界らしい。
どうしても昔から馴染みのある歌は歌いたいようにしたい。それはダメなのだ。
坦々と、歌詞に沿って、音符に充実に声を載せるのだと言われている。
それは結構難しいのだ。つい、歌いすぎてしまい、自分ながらに満足しても、指導者からはダメ出しをぶつけられるのが関の山だ。
話をデイジーに戻すが、やはり私はある程度の抑揚がつき、声色でも楽しみながら聞きたい。それは贅沢な希望なのかしら。
それはさてとして、いつも提供してもらうデイジー図書、また音声訳の人たちには改めて感謝!であります。
いつも素敵なデイジーをありがとう!!
Date: 2021/01/19(火) No.2052


conkoの「自分の記憶がどんどんヤバくなってる?」
conkoが住む市では広報誌の音声版を視覚障害者に発送している。広報誌は月に一度だが、デイジーとして送られるのは月に二度である。一日号と中間に一度。
それが今月はなかなか届かない。変だなと思い、もうとっくに聞いて返還したのかなあとか、まだ来ていないのかなとか思っていた。
私ははっきりさせたい性格なので、市役所に尋ねてみようと電話してみた。
声の広報担当のスタッフに出てもらい、事の詳細を伝えた。
「後半号がまだ来てないみたいですが、いつ発送されましたか?」
相手は少し困ったような声で、「ええっとですね、昨年からですが、コロナウイルス感染予防の為、音訳ボランティアの人たちが集まりにくくなっていますので、月に一度とさせていただいております。」と説明していた。
そしてその事はデイジーの中でも説明済みだとの事だった。
えーっ?すっかり忘れていた!きっとデイジーで月に一度となる事の案内があり、ちゃんと聞いたのだろうが、覚えていなかった。
だから、勝手に「まだ来ない。」と気をもんでいたのだ。
こんなトンチンカンな質問をするのはconkoくらいなものだろう。
電話口のスタッフには私のアホさ加減をしっかりと伝えてしまった。
どう取り繕っても手遅れである。
スタッフの声は困ったように、笑うしかないと言った感じだった。どうもすみません。

一つ案じていたものが片付いたので、ほっとして次の事をしようとリビングに行き、テーブルに手を振れたら、何かが乗っていた。
今しがた買い物から帰ったばかりなので、品物を、夫がエコバッグから出しておいたのだろうと思ったが、とんでもない。違っていた!
私が、朝食に使った食器を洗い、棚に入れるばかりにしておいたものを、片付けもしないで、そのまま買い物に出かけてしまったらしい。
皿やフォークが出たままになっていたのを手で触れたのだ。なんでここにあるの?と呑気に考えていたが、私のやりっぱなしで、そうなっていたのだ。
すっかり忘れていた。私の中ではとっくに食器棚に入れたのだった。
この先どうなるの?コロナの感染も怖いけど、私の記憶がどんどん衰えていくのはもっと怖い。Wow!
Date: 2021/01/18(月) No.2051


conkoの「社会に貼りつく理不尽」
何だかなあ。最近、年寄りになってくるといろんな事を深く考えてしまう。
子供の頃は、その日その時の想いに任せて、後先はあまり考えていなかった。
若い頃は、人の中で暮らしている自分を見つめるようになってきた。
そして今、学生でもなく、勤労者でもなく、暮らし方を選べるような年齢と環境になってきた。きっと、あとどれほどの命もないと思う。
いや、66歳だから、もう少しはいけるかも知れないが、将来への目標とか課題とかはかんがえなくて済むような気がする。
我が家の家計も、どうにか不自由なく暮らせればよい。贅沢をしようとか、豪華なものを買おうとかは思わない。
それは、できる環境にいる人たちがやればいいのだ。
自分の暮らしを充実させ、好きな事ができる事に感謝しながら、そこそこの健康と共に、家族と暮らす。今のところはそれが最大の幸せである。
これ以上の欲はない。

ただ、どんな家庭環境にあろうとも、私たちは「今」全員がコロナウイルスの猛威の中で生きている。
その「今」をどう過ごすのかは個人個人の運による。
例えば、今年丁度成人式を迎える人。修学旅行に行く人。大学入試を受ける人。結婚式を挙げるカップルなどなど…。
彼らには「次にしよう。」はないのだ。今しか!
運が悪かったんだと片付けては可哀そうすぎる。
彼らのショックや悲しみは、どうしようもないほどだと思う。そこに加わるのが、関係者たちのアイデアだ。
工夫し、今年の彼らだからこそ味わえる方法を考え出し、提供する人たちが現れる。
涙ぐましいほどのひらめきと努力である。
そんなニュースをネットで聞くとうれしくなる。胸がキュンとしてくる。

世の中、何でもタイミングとバランスである。
この大変なコロナ渦で、倒産する事業があれば、逆に仕事が増えて忙しくなった事業化もいると聞く。これもどうしようもない社会のバランスなのだろうか。
この状態はしばらく続くのだろう。
誰もが大変なのだ。どうしようもなく。
社会の、その時代に貼りついた理不尽を感じる。
Date: 2021/01/17(日) No.2050

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このプログラムは上記のCGIを改造したものです。