*--ありんこDiary--*

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conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/04(日)
conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/03(土)
conkoのセピアメモリーズ「駅舎」  2021/04/02(金)



conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
今日の私は30代前半。娘は4、5歳頃か。まだ現役で働いていた母を私たちは駅まで迎えによく行ったものだ。
木造の駅舎で母を、娘にとってはおばあちゃんを待ち、改札口から現れる姿を見つけては飛びついて行った。
「ばあちゃーん、おかえりー!」と孫に迎えられて母はいつもうれしそうだった。
ばあちゃんと呼ぶには若すぎる。見た目も母は若かったので、それを自覚してか、少し気恥ずかしそうでもあった。母はまだ50代前半だったから。
ショートカットできりっとした姿勢のいい歩き方で、孫と手をつないで私のマンションまで一緒に付き合ってくれた。
母はマンションに着くと名残惜しそうに孫と「じゃあ、バイバイね!」と言いながら自分の家へ帰って行った。どうだろう、母の家は歩いておよそ10分くらいの距離である。
ほぼ毎日、雨が降らない限り私と幼い娘はこのお迎え散歩を日常としていた。

駅舎で待ちながら娘とおしゃべりしたり、時には歌を歌ったりしておばあちゃんを待っていた。そういう日を送りながら娘は次第におばあちゃんと会うと、うれしいが照れくさいという顔をするようになった。
私は気づかなかったが、母が「なあに?照れくさそうにして。」と、はにかんで私の隣から離れなくない孫を見てそう言ったものだった。
娘がもっと小さかった頃は文句なしにおばあちゃんとおじいちゃんが大好きで、抱っこしてもらってはご機嫌だった。
そんな孫も少しずつ成長して行ったようだ。何しろ今は春から高校に入学した息子を持つ母親となっているから。

文句なしに甘えて飛びついたあの頃から何十年と経ったのだ。
駅舎の改札口から颯爽と仕事帰りの姿を見せた母ももう高齢者となって、私の父、つまり母の夫を亡くした20年前から独りで暮らしている。
新型コロナウイルス災いで母とも十分に会えなくなっている。一緒に温泉でも行きたいね、と淋しそうに言う母が不憫でならない。
はるか昔の駅舎での思い出は尽きない。「今」は「昔」とつながっているはずなのに、切り離されたイメージしか残らないのは何故だろう。
Date: 2021/04/04(日) No.2162


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
かつて私がよく利用した駅舎の風景は、もう完璧に消え去ったノスタルジアである。
頭の中のイメージだけとなってしまった。どれほど懐かしく、帰って来いと泣き叫んでも二度と戻ってはこない。今ではモダンなコンクリート造りの駅舎となっている。
いつ頃そのデザインに変わったのかは覚えていないが。

認知症が少し感じられる67歳のconkoばあばにも若い頃はあった。
遠い過去、近い過去と、話は昔までの距離を行ったり来たりするが、駅舎から見た風景を蘇らせてみたいと思う。私は改札口からいろんな人を見送った。遠方から遊びに来てくれた伯母だったり、勤め先の女子社員だったり。恋人だったり。
そう、若き日の私は何度も恋人を見送ったものだった。

とある日、彼は大雨の降る駅舎のベンチに座っていた。私が貸した傘をすぼませて、下を向いて次の電車を待っていた。遠くで雷も鳴っている。
私の家に遊びに来ていた彼が「もう遅くなったから…。」と自分の家に帰ると言った。
外はかなりの雨が降っていた。彼は傘は持ってこなかったというので、うちの傘を使ってもらうようにと渡した。彼は「ありがとう。」と静かに言って出て行った。
だが私は彼が気になってすぐ後を雨の中、駅まで小走りで追いかけた。
駅舎に着くと彼は静かにベンチに腰かけていた。

「これから雨がひどくなるみたいだし、雷も鳴っているからうちへ泊まって行ってよ。」と私は彼に言った。「迷惑かけるからいいよ。」と彼は言うので、私は半ば強引に彼の腕を掴んで駅舎から出た。彼はうちに泊まって行った。母も父もそうする方がいいと言ってくれたので、私も安心して彼を家に再び入れたのだった。
翌朝、客室を見たらきちんとたたんだ布団の上に何かが置いてあった。
「お世話になりました。」と彼の手書きメモが置いてあった。
黙って駅に向かったのだろうか。時間はまだ5時になっていなかったと記憶している。
誰もいない駅舎でたった一人、早朝発の電車を待っていたのだろうか。

その後も彼は何度か家に遊びに来た。その度に駅まで送って行き、改札口からずっと彼の背中を見送っていた。
何回続いただろうか。だが、いつの間にかその風景はなくなっていた。
駅舎の薄暗い明かりの中で下を向いて座っていた彼の姿は、永久に消えない。
これは私の若き日の甘酸っぱいセピアメモリーである。
Date: 2021/04/03(土) No.2161


conkoのセピアメモリーズ「駅舎」
それはとても天井が高くていつまでも木の香りが消えない、古くから大勢の人々を市外へ運び、また市内へ呼び込んできた駅舎だった。
床はコンクリートの打ちっぱなしで、硬く丈夫な造りの木のベンチがいくつか向かい合わせで並べてあった。多くの乗客たちが入れ替わり座るものだから、ベンチの木の肌はツヤツヤしていた。
駅舎の窓は人の腰くらいの高さからぐんと一気に天井近くまで延びていた。実に明るく、朝はたっぷりと太陽の日差しを注ぎ込んでいた。夜は漆黒の暗闇の中で、天井に備え付けてある明かりが鈍い光を差しているだけだった。
その窓からどれだけの人たちが別れ、また迎え入れた事だろう。

当時の改札口はやはり木製で、しっかりとした造りで重厚な感じがあった。
それがいつの間にかステンレス製のしゃれたものに変わっていた。
改札の職員は常に切符にパンチを入れる道具を手に持ち、カチャカチャと鳴らしていた。客がいてもいなくても常にカチャカチャと。手の訓練だとか言っては「腱鞘炎になっちまうよ。」とボヤく職員もいた。
その改札口を通ってホームにつながるアプローチは線路の上をまたぐ階段通路となっていた。階段の上り口を見上げると「ここはホームへつながる階段です」という案内板が備え付けられていた。その文言までは忘れてしまったが、「ホームへ」が「ホームえ」と書いてあった事を鮮明に覚えている。
よく母に聞いたものだった。「なぜホームえって書いてあるの?」と。

階段までのアプローチにはコンクリートで道が造ってあり、その左右には小さな池と花壇が設えてあり、その空間だけでも季節を十分に感じる事ができた。
小さな池には金魚もいて、真ん中には白い「小便小僧」の像が置かれ、常にちょろちょろと水が出ていた。まるで放尿している少年そのものだった。

今ではJRと呼ばれる鉄道だが昔は国有鉄道、略して国鉄と呼んで久しかった。
私は現役のSLが走っている所を見た事はないが、客車も貨物もディーゼル機関車で、それが長い車両を牽引していた。
貨物など何両続いているのか数えたくなるほど、キリがなかったのを覚えている。荷台にはむき出しの石炭が積まれて、つやつやと黒光りしていた。
ホームで電車を待っている時なども、目の前を長い列を作った貨物が轟音と共に走り抜けていく事も何度かあり、時には荷台の上に雪がたっぷりと積もったまま運ばれていく事もあり、その貨物が長い距離を旅しているのがわかり、しみじみと思いにふけったものだった。
荷台は今のようなコンテナではなく、ダイレクトな車両に荷物を直に入れて運ぶ形が主だったと記憶している。中には動物、例えば馬や牛が運ばれていく事もあったように思う。
時代、いや社会そのものを映し出すかのように、貨物の荷台にはコンテナさえ乗っていないフレームだけがいくつもつながって走っている事もあった。物流の形が貨物から陸路のトラックに移って行ったはざまを見たのかも知れない。

私が利用していた国鉄の駅は、同市内にある私鉄に比べると利用者がさほど多くなかったので、もみ合う程の混雑はなかった。
電車も各駅しか止まらず、一時間に二本くらいの快速電車が止まったくらいだ。
とは言え、朝夕のラッシュというものは一応あったので、それに出くわすと大変だった。だがそれ以外はポツリ、ポツリとしか人は乗っていなかった。
今ではもう二度と目にする事がない情景である。
時代も移り、人々も変わっていった。
Date: 2021/04/02(金) No.2159

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このプログラムは上記のCGIを改造したものです。