「政権は自らの嘘に囚われているために、すべてを偽造しなければならない」 3月2日中日新聞社説は、以下の趣旨を「週の初めに考える」で論じている。 それでも権力は「無罪」なのか・・・「ときの政権の都合で法解釈を自由に変更しては、『法の支配』が根底から揺るがされる」・・・「今回の検察人事を巡る閣議決定は人事院規則、国家公務員法に違反している疑いが濃い」――学者の指摘を政権は重く受け止めるべきです。――「できないこと」を一内閣の一存で「できる」に転換はできません。それを許せば「権力は無罪」どころか「有罪」になります。 多数派は万能ではない 確かに民主主義は最終的には多数派の意見がものごとを決める仕組みです。その一方で、立憲主義とは多数派でも覆せない原理を憲法に書き込み権力を縛っています。例えば、基本的人権や国民主権を奪おうとしても、奪うことができないように・・・ つまり民主的な手続きで選ばれた権力であっても、なんでもできるわけではありません。万能ではありえません。かつ法はなにができてなにができないか、自明でなければ意味をなしません。 嘘のなかに生きる羽目に 「嘘のなかに生きる羽目になる」とは、今の日本の政治状況ではないでしょうか。 戦前の帝国憲法下の政治手法を、平気で持ち込もうと試み、戦後の平和憲法を平気で守るろうとしない。セミ独裁政治:暴走政治:決めることが大事と次々と前のめりになっている。 社説の冒頭ハベル(チェコの大統領だった)の言葉を紹介しながら次のように書いています。 「はっとします!!」 「権力は自らの嘘に囚われており、そのため、すべてを偽造しなければならない」 チェコ文学者阿部賢一東大准教授の「力なき者たちの力」で文章はこう続きます。 <過去を偽造し、未来を偽造する。統計資料を偽造する。(中略)人権を尊重していると偽る。誰も迫害していないと偽る。何も恐れていないと偽る。何も偽っていないと偽る。(中略)それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる> 「ビロード革命」と呼ばれるチェコの社会主義体制から民主化への転換点で、一党独裁体制を続けていた当時の権力の姿です。経済は停滞し、言論抑圧の中で国民には無気力、無関心が蔓延したそうです。 「権力は先天的に無罪である」という言葉もハベルにあります。「政治と良心」(1948年執筆)に出ています。権力はなにをしても罪に問われない。――旧東欧の悲劇的な状態を指すと同時に権力の一般論でもあるのでしょう。不条理劇の劇作家でもあったハベルは鋭く権力の核心を言い当てていました。 東京高検検事長の定年延長問題 検察官の定年は検察庁法が適用されるのに、国家公務員法の勤務延長の規定を用いるのは無理筋です。 人事院が八一年に「検察官には国家公務員法の定年規定は適用されない」と答弁していたことが判明すると首相は唐突に「解釈を変更することにした」と。人事院は「八一年解釈は続いている」と答弁していたため、「言い間違え」と苦し紛れの状態になりました。 法相も解釈変更の証明に追われます。日付のない文書を国会に提出したり、挙句の果てには「口頭決済だった」とは。国民には政権が嘘を重ねているように映っています。 それでも「解釈変更だ」路線で突っ切るつもりでしょう。首相が「権力は先天的に無罪である」ように振舞っているためです。 ハベルの言葉はベルリンの壁崩壊前です。全体主義的な体制下では権力がすべてを抑えて、自らの不届きをただす存在を許しません。嘘をつこうが罪に問われません。権力は永久にその不正をとがめられることはないのです。 しかし、三権分立が確立した社会では、行政府の長といえど司法のチェックは受けます。検事長人事の問題は司法分野に関係します。検察は公訴を提起できる準司法機関だらです。権力が都合のいい人事でいずれ検事総長にしたら・・・。政治から独立した検察組織が崩れ、巨悪は立件されないでしょう。闇から闇です。 新憲法と同じ四七年に施行された検察庁法に厳格に定年を定めたのは理由があります。「検事の権限が強大になり過ぎないか」と懸念し、検察官の身分保障を弱める意図がありました。当時の臨時法制調査会の記録にあります。